海外宣教の姿勢 -USPG創立三百年感謝礼拝説教-

執事 デオヌシオ遠藤雅巳

 フィリピン聖公会は、20世紀初頭に米国聖公会が行った宣教よって形成された教会と言われており、USPGが入り込む余地はなっかたと考えられがちですが、実際には非常に重要な貢献をしてきました。ここでは「ディアコニス・アシュクラフト」と呼ばれ慕われている一人の英国人宣教師の例を通してそれを紹介したいと思います。  当時、カトリック教会は米国政府から、フィリピン統治の邪魔になると考えられていました。しかし、宣教主教に任命されたチャールズ・ブレントは、「聖公会の使命はカトリック教徒を聖公会に招くことではなく、まだキリスト教が伝えられていない人々のところに福音を携えて行くことだ」と宣言し、米国総督を慌てさせました。
 宣教師たちとその家族は、想像を絶する困難を克服して少数民族や貧しい移民の友となり、キリスト教を伝道しました。これがフィリピン聖公会が、現在でも「少数者の教会」といわれるゆえんです。  特に北部山岳地帯では、これまでカトリックを拒否してきたイゴロットと総称される山岳民が聖公会に加わりました。  女性執事アシュクラフトが戦後まもなくやってきたのは、このような山岳地帯のタジャンという地域でした。彼女は最初USPGの宣教師として中国伝道を希望したようですが、中国では共産党が優勢になって宣教師たちも引き上げ始めた時で、当時フィリピンには、中国情勢が安定するのを待ち中国に戻ろうする、多数の聖公会の宣教師がいました。
 この人達は、待機する間に周辺地域に伝道し、各地に教会を建てました。ところがこれらの伝道は教区と関係なく行われたので、彼らが去った後はそれらの教会は聖公会とは別の、独立した教会になってしまいました。
 アシュクラフトの場合は、USPGがフィリピン宣教区主教と直接交渉して彼女を派遣し、米国聖公会の伝道に協力する形をとったので、こういう問題は起こりませんでした。
 さてアシュクロフトが伝道した地域は、聖公会宣教の中心サガダに地理的には隣接していました。住民はサガダと同じカンカナイ語を話したのですが、二つの地域は伝統的に仲が悪く、また、この地域は日本軍占領下でかなりの犠牲者を出して人々の気持ちが荒廃しており、伝道地としては相当難しい地域だったようです。
 彼女がこの地で最初にしたことは、天候に関係なく毎週8キロほどの道を巡回し、山村で婦人を集めて祈祷会や聖書研究会を開き、困っている人々の相談にのり、重病の人を見つければ病院に送り、地域の婦人たちを組織することでした。彼女はこれを超人的努力で在職中継続したのです。  婦人達の活動が活発になると地域の少年少女を自分の宣教師舘に寄宿させ、有望な少年少女達には奨学金を与えてマニラや英国で高等教育を受けさせました。後にアシュクロフトが支援した神学生の中から三人の主教が出ました。またフィリピン初の女性伝道師学校をタジャン村に開設しました。  彼女の活動に対し、当初独断専行だとして米国司祭の反発が強く、その度に彼女はビンステッド主教(戦前、東北教区主教)に直接談判し、必要な資金を自分で調達しました。USPGも伝道教区に献金する形で支援し、現地聖公会の背後に意図的に隠れたように見えます。
 アシュクロフトは、このよう形で地域に貢献し、地域住民から絶大な信頼と尊敬を得るようになります。しかし彼女は、感謝する住民に「私にではなく神に感謝しなさい、聖公会に恩返ししなさい」というのが口癖だったと伝えられています。
 一方この英国婦人宣教師には、これらの話とは矛盾するように感じられる逸話があります。たとえば彼女は村々を巡回する時、少女たちにパラソルや紅茶と茶器の入ったバスケットを持たせてつき従わせたとか、また、ある司祭が帰郷して初めて礼拝を司式した時、英語の発音が正確でなかったという理由で途中で席を立って出ていってしまったといった話です。
 その反面、彼女は少年少女達に「私は自分の国の文化を愛します。あなた方も、自分達の慣習や言語を大切にしなさい」と常に教えていたと言われていますから、彼女が文化帝国主義者だったというような批判は、やや単純過ぎるようです。
 偏見や誤解から自由ではありえない「普通の英国婦人」が神に呼び出され、神の計画に忠実に働き、それ故に大きな伝道の働きをなしたと考える他ないのではないでしょうか。  彼女は一九六七年のある朝突然引退を宣言し、翌々日フィリピンを去ってしまいます。「この教会はアシュクロフトの教会ではなく、神の教会です。教会の働きに休みはありません」と言い残し、村人のだれにも見送ることを許さなかったと記録されています。現在この地域は全住民が聖公会に属し、パリッシュの活動は、今も婦人たちの強力なネットワークによって支えられています。
 アッシュクラフトの「物語」を通じて示されるUSPGの姿は、自ら伝道の先頭に立つのではなく、地域の文化や自主性を尊重して、自らを隠して宣教に協力して行く「成熟した」姿勢を、20世紀の中ごろには既に確立していたということです。  このような態度の基礎には、神の宣教(ミシオ・デイ)に謙虚に参加する宣教理解があったといえましょう。私たちはUSPGの三百年間の活動に感謝するとともに、彼らが到達した豊かな世界宣教理解に学びたいと思います。


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