神の栄光と若者の希望のため
ミス・リー逝去30年記念式−2001年10月28日 神戸聖ミカエル教会

奨励者 芙美子・ファーガソン

 皆さま、おはようございます。私は芙美子・ファーガソンと申します。43年間英国で暮らしています。私が持つレオノラ・リーの思い出を皆様とともに分かち合う機会を与えられましたことをたいへん光栄に存じます。ここにおられる多くの方々は、各々の、丁度30年前天に召された、偉大な教師であり指導者であったミス・リーの思い出をお持ちであろうと思います。
 正直申しまして、ミス・リーについて話してくださいと中村司祭からお願いされたとき、皆様方の前に立ってお話しする自信はありませんでした。しかし、女子生徒のとき、家を離れ、独立して暮らしていた時、大人になり母となった時、私の人生におけるそれぞれの段階でミス・リーの影響を思い出しました。不安におののきながら何かを試みようとするとき、取りかかかろうとするとき、ミス・リーの力強い励ましを思い出すのです。そのミス・リーの励ましを語ろうと決め、今、ここに立っています。
 遠いむかしの話です。私が松蔭高校生徒の時、毎日新聞社主催の英語弁論大会に出場しました。「光陰矢の如し」というスピーチでした。若年であった私は「時は矢のように飛んでいく」という意味を知っていたつもりでした。しかし、45年かかってようやく本当に意味することが分かってきました。
 ミス・レオノラ・リーが世を去って今日で丁度30年になります。ミス・リーが亡くなったことを妹のヘレンが電話で知らせてくれた時のこと、1971年11月 2日、サリー州バンステッドの諸聖徒教会での葬式のときのことなど、まるで昨日のことのように覚えています。ヘレン・リーが持っておられた一冊の小さなノートがここにあります。葬式の後お茶をヘレンの家でいただいたのですが、家に来られた方々の名前がこのノートに書かれています。皆さまの何人かはその名前を知っているか、覚えていらっしゃるでしょう。
 幾人かのお名前をお読みしましょう。アンデレ中村 豊・ルカ伊神努・ダビデ坂牛八州・パウロ樺島竹千代(4名はケラム神学校より)、マリオン・ウイルター、チェンバレン司祭ご夫妻、エリザベス・へール、ウッドロビンソン司祭ご夫妻、エレノア・フォス、キャサリン・シェパード、テルコ・シーレイ、久松恵子 など
 ミス・リーが最後に英国に帰ったのは1971年秋でした。彼女は口頭癌を患い、病状はよくありませんでした。ミス・リーは直ちに聖三一病院に入院し、そこで最後の日々を送ったのです。入院中、ミス・リーは一通のメッセージを私に送ってくださいました。それには、「不治の病いにある者としてでなく、私の生き方によりあなた方が得た貴重な財産を通して私を覚えていて欲しい。だから誰とも会いたくない。」というものでした。ミス・リーが私たち一人ひとりの人生にもたらしてくださった恵みを覚えること、これが今私たちに求められています。
 では、ミス・リーについて、どのようなことを思い出すのでしょうか?
ここにおられる多くの方々、ことに私のような「昔の人間」は、仕事を通し、また生徒・学生としてミス・リーを個人的に存じています。ミス・リーについて書かれた資料を通じて知っている人々とか、ミス・リーがこの地に残された、記念となるものを通して知る人もいるでしょう。
では、彼女はどのような人物だったのでしょうか?
私の心に浮かびあがる言葉はたくさんあります。
親切な人・厳格な人・出し惜しみしない人・思いやりにある人・熟慮の人・同情の心をもった人・よく理解する人・偉大な教師・指導者・抜け目ない利口な人・謙遜な人・決断力の人・世話好き・少々おちゃめ! 1杯のウイスキーをとても楽しんでおられたのを覚えています。
 しかし、何がミス・リーをこのような女性にしたのでしょうか。それは家庭的背景によるのでしょうか。教育と環境、キリスト信仰によるものだったのでしょうか?
 ミス・レオノラ・エデイス・リーは英国籍をもち1896年、カナダのノヴァ・スコチアで生まれました。宣教師アーサー・リー司祭の子供で2才のとき、はじめて日本にきました。日本・カナダ・英国で教育を受けましたが、英国ではグロースター州の名門校、チェルテンナム高校で学び、1921年ロンドン大学で文学士の学位を受け、カナダ、トロントの高等学校で教鞭をとり始められたのです。
 皆さまの多くはご存知のように、ミス・リーには4人の姉妹と2人の兄弟がいましたが全員日本で生まれました。一時期、聖ミカエル国際学校で数学教師をされていたレイラ・リーをご存知の方もおられるでしょう。ミス・ドロフィーはフランス語の先生でした。カナダの医師に嫁がれたヒルダ・アイチソン夫人は看護婦さんで息子が一人いました。ミス・リーの兄弟の一人は、東南アジア・アフリカで活躍した有名な気象学者で、結婚して三人の子供に恵まれていました。ヘレンは、キングズ・カレッジ病院付属看護学校で指導教授をされていました。
 ミス・リーの親切な取り計らいにより、川野光子と私はキングズ・カレッジ病院付属看護学校(現在はロンドン大学の一部)に入学しました。結婚した後もヘレンは私を家族の一員のように扱ってくださったのでした。
 ヘレンに会って話をされ方はご承知のように、ミス・リーとヘレンの話しぶり、しぐさはそっくりです。ですからヘレンと会うとき、ミス・リーを思い出してしまいます。1990年、91才でヘレンが亡くなるまで、私は幸いにもミス・リーの妹たち全員にお目にかかっています。カナダに住んでいるヒルダと弟たちには会ったことはありませんが、ミス・リーの弟の奥さんと3人の子供に会いました。
 リー一家の生活についてお話ししたいと思います。これはヘレンが私によく話してくれたことです。ミス・リーのお父さんは九州教区主教でしたが、その九州で自動車を運転した最初の人であったのです。
 英国で休暇を過ごしていた時、ロンドンの教会で説教しました。礼拝後、出席していた一人の婦人が「これで自動車を買ってください」と言いながら真珠の首飾りをはずし主教に贈ったのです。それで主教はフォードのモデルTを買ったというわけです。
 当時、日本には自動車を修理することのできる人は誰もいませんでした。そこで、主教は自動車を解体・修理することを自力で学び、その技術を身につけました。九州の道路は道幅が狭かったので、どうしても車軸を短くしなければ車は通れなかったからです。
 リー主教と奥さんが日本滞在中、子供たちのほとんどは、故郷の英国サリー州リンプスフィールドの全寮制学校、聖ミカエル学校に送られました。従って4年か5年に一度しか両親と会えなかったのです。学校が休みの間は、生涯独身を通した叔母が面倒を見てくれました。
 そのころ、長女であったレオノラは、カナダで教鞭をとり始めていました。
 衣料費として年に5ポンドしかくれなかったので、服を作るのに生地を買ってこなければならなかった、と次女ヘレンは私に話してくれました。ですから、ヘレンは立派な裁縫師になりました。
1927年、我らのミス・リーはSPGの宣教師として日本に戻り、宣教活動のかたわら松蔭女学校で教鞭をとり、ご存知のように戦中も神戸に留りました。
 ミス・リーは偉大な教師であり指導者でもありました。聖ミカエル国際学校校長、松蔭短期大学学長を歴任し、神戸外国語大学でも教えられた。
 このように、ミス・リーは宣教師の家庭で育ち、家族の人々は生涯、贅沢のために使う金はありませんでした。ミス・リーは教師になるべく教育を受けたのですが、家庭から学びとった信仰を受け継ぎ、神へ奉仕するために宣教師として自分に与えられた賜物を十分に用いたのでした。  聖ミカエル国際学校の女子生徒であった私は正直いって、西洋おばさんと呼ばれたミス・リーは少し恐い存在でした。
 多くの人たちは、彼女を優しい人として覚えていますが、一方では、ミス・リーはしばしば私たちのことをおてんば娘とか、わんぱく小僧と呼びましたが、私たちにとって、そう呼ばれることは決して嬉しくありませんでした。ミス・リーが中村司祭のことを、やはり、わんぱく小僧と呼んでいたと私が言っても中村司祭は気になさらないでしょう。しかし、あの時と今ではあきらかに違ってますよね。そのわんぱく小僧がこのような司祭となったのです。
 ミス・リーは、何が正しくて何が間違っているかを私たちが理解し、私たちの徳をたかめるためにあえて非常に厳しく接したのだと、今そのように思っております。
 私の両親には知らせずに、ミス・リーは松蔭高校受験の手はずを整えました。試験を受け、翌日から私は松蔭生になりました。きっと私が松蔭に入学できるよう取り計らっていただいたものと、今でも思っています。松蔭と聖ミカエル国際学校両方で学ぶ機会を持てたことをミス・リーに感謝しております。松蔭を卒業し英国の看護学校で学ぶことになりましたが、入学まで1年間のブランクがありました。ミス・リーはそこで松蔭短大で勉強するよう取りはからってくださいました。英国に旅立つ前の空白を有効に使えるよう配慮して下さったに違いありません。実際、ミス・リーは自分の教え子たちがどのような方向に進んだらよいか長い間熟慮し、一人一人の行くべき道を示したのでした。ミス・リーは、私たち一人ひとりにとって最上のものを望んでいたと、私は信じています。
 1958年、ミス・リーは、私が看護学を学ぶためロンドンに行く手はずを整えて下さいました。私は知らなかったのですが、川野光子さんにも同じようにされていたのです。英国行きの船の切符を予約しに行ったとき、それが初めて分かりました。きっと、光子と私を試験していたに違いありません。私たちそれぞれが自分の力で旅行や学校のことを手続きするよう願っていたのです。加えて、ミス・リーは異境の地での友情の尊さをもご存知だったのです。なんと賢い方なのでしょう。
 私が看護大学で学んでいるとき、ミス・リーが英国に来られました。日本の習慣に従い、海外旅行のため、松蔭短大の学生から美しい赤いガウンがミス・リーに贈られました。ところが、自分には豪華すぎる、松蔭卒である私がそれを着るのにふさわしいといって、そのガウンを私に下さるのです。ご自分でそれを着ることができたのに、寒いロンドンで学ぶ貧しい学生の私が着るほうがより有益であるとお考えになったに違いありません。ここにおられる多くの方々も、ミス・リーが私たちの必要なものを自分のものより優先して差し出された、このような例をご存知だと思います。 
 1963年私は結婚し、最初の一年間を日本で過ごしました。1963年から1964年の間、主人と私は、ミス・リーのもとで聖ミカエル学校の教師をしていました。その年、一つの出来事が思い出されます。他の2人の先生と共に、4人で余島キャンプ場に子供たちを連れていきました。楽しいキャンプを終え、私たち一行が神戸港に帰ったとき、そこには無事帰ってきたことを歓迎するようにと、ミス・リーの代理としてミス・広瀬が迎えに来られました。子供達全員が無事両親のもとに帰ったのを確かめた後、私たちは「エスカルゴ」というすばらしいレストランに招かれたのでした。
 ミス・リーは本当に思いやりのあるボスだったのです。

 最後にお会いしたのは1971年 7月で、ミス・リーが妹のヘレンの自宅バンステッドで過ごすために英国に帰ったときでした。そのころすでに病に犯されていました。自分の体は最悪なのに、私の息子達におもちゃの飛行機2つ持ってきてくれました。どんな状態の時でも他人を思いやることを忘れないのです。
 その年の夏、息子達を連れてが神戸に行くことになっていました。ミス・リーは「子供達が遊べるように熊内通にある私の自宅の庭に連れて行きなさい、山元久子さんも一緒に子供達の面倒をみてくれます」と言われました。
 何と素晴らしい女性の想い出なのでしょうか。
 では、一体何がミス・リーをそのような行動。・言動に駆り立てたのでしょうか。
 ミス・リーは、物質的なものは動かされず、むしろ、それを与えられた方であることを私達は知っています。ミス・リーは力とか名声などには動かされず黙々と事をこなし、教え子の何らかのプラスにならない限り、決して自分の立場を利用することはなさらなかったのです。ミス・リーは、日本で教育に尽くされた功労に対し、国からは勲四等瑞宝章を、兵庫県からは国際文化章を受賞されました。
 一つのモットーにその生涯をかけた人物としてミス・リーは私たちに良き模範を残されました。そのモットーは聖ミカエル国際学校のものでもあります。それは「神の栄光と若人の希望のため」です。
 ミス・リーは、神に仕える者として、周りの若い人たちに神の愛を注ぐ必要に心を動かされていました。神に仕える人になることは主イエスの模範に従い、損得を考えず報いを求めずに愛し、誠実と善良の模範とならなければならない。耐え難い苦労の後の楽しみ方もご存知でした。ミス・リーは、神戸の人々の中に神の国を築き上げること、これが自分の使命であると自分で確信しておられました。
 最初にお話しましたように、ミス・リーは、自分の死に様ではなく、自分の一生は希望と勇気をもたらすためのものであったことを私たちが思い出してほしいと望んでおられたのです。
 私を含め多くの方々はミス・リーに大きなお陰を受けていますが、ミス・リーにご恩返しをすることができません。しかしそれはミス・リーが望んだことではありません。私たちも神の栄光と若人の希望のために自分の人生を生きることを望まれたのです。
 どうしたらよいのか分からなければ、ミス・リーを思い出してください。その思い出は素晴らしい模範になり、ミス・リーを通して神の恵みと愛を私たちに示してくれ、私達にイエスの模範に習うように教えてくださったのです。
 ですから、私たち一人ひとりがこのモットーに従って生きているならば、今日、ミス・リーはきっと天国で天国のウイスキーの杯をあげて喜んでおられることでしょう。そのモットーとは「神の栄光と若人の希望のため」なのです。
 ありがとうございました。


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