真実である方

司祭 パウロ上原信幸

 信徒奉事者養成コース教材の作成を、教区の聖職で分担することになり、担当箇所の準備をしながら、ふと神学生時代を思い出しました。
それは、神学院の教授から次のように言われたことです。
「君たち学生のレポートは、ほとんど文献からの引用で言ってみれば、てにをは以外は全他人の文章である。まあ、それでもかまわない。ハサミとノリでつなぎあわせそのあいだに、てにをはを入れて作ったような文章を読みながら、君たちが何を言いたいかを推察しているのだ。」
20年近く経った今も、内容的にはさして変わりはありません。せいぜい参考にする本の数が若干増えたくらいでしょう。考えてみれば、文書であれ会話であれ、私たちが発する情報は、経験やそれに基づく判断だけでなく、他から得た情報も多く含まれています。どうかするといわゆる「受け売り」の方が多いかもしれません。
 テレビをつければ、何か新しい話題があるたびに、解説者が沢山出てきて、コメント
をしています。中にはにわか専門家もいて、知識も怪しげです。好き放題に語りますが、分析や予想がはずれたからといって、別にお詫びがあるわけでもなく、視聴者の側も、そこまで真剣に聞いていないかもしれません。

自らの責任
英国のべーデン・パウエル卿が始めた青少年育成活動は、日本にも伝わり、聖公会のみにとどまらず、広くスカウト活動として知られていますが、スカウト(元来斥候・偵察を意味する)に求められる、自分自身の目で見て、耳で聞いて判断する。そしてその結果に責任を持つという体験は、人間の成長に非常に大切な役割を果たしていると思います。テントの設営をひとつ間違えれば、水浸しになるのも自分、道を間違えればひたすら歩かなくてはならないのも自分です。
しかし、私たちをとりまく社会では、コンピューターゲームに代表されるように、多くのことを仮想現実の中で、色々なことを実験的に行うことができます。気に入らなければリセットボタンひとつで振り出しにもどせ、今日も、テレビコマーシャルでは夏休みまで仮想体験させてくれるゲームの宣伝がされています。そのような中で、ますます責任を伴わない体験が増えていきます。

真 実 に
私たちクリスチャンは、自分の祈りであれ、他の人が代表して祈った祈りであれ、その言葉が、真実の自分の祈りであることを、アーメンと唱和することによって表明します。いわば署名捺印つきの言葉です。
その対極にある言葉は、うわさ話というもので、真実かどうかまったく怪しい状況でも語られます。しかも、その影響力は大きく、語る人の品位をさげる以上に、話題となった人を傷つけます。そして、それが真実ではなかったとしても、だれも責任をとらないのです。
クリスチャンである私たちの口から出る言葉は、真実の祈り、また誠の言葉であるようにしたいものです。もちろん「アーメンである方」はキリストお一人で、私たちは自身が真実な者であることはできません。しかし、自らの責任によって、真実な方に信頼して、倣う者とさせていただきたいと思います。


© 2001 the Cathedral Church of St.Michael diocese of kobe nippon sei ko kai