実りの時

司祭パウロ上原信幸

 先日、ぶどうの季節が終わる前にと、夕方の1時間程ですが市内のぶどう園へぶどう狩りに行きました。
 夕暮れも近く、お客さんも帰った後で、ほとんど貸し切り状態だったため、管理者の方がつきっきりで、葉っぱ7枚でぶどう一房に十分な栄養が送れることや、できるだけ枝に近い所に実っているぶどうを選べば、それだけ甘いぶどうを採ることができることなど、いろいろと教えていただきました。

  わたしはぶどうの木
 聖書の中で、イエスさまは時々ご自分のことをたとえを用いてお話しになります。「私はぶどうの木である」というものもそのひとつですが、それを読むと、どうしてイエスさまはぶどうの木を選ばれたのかと思います。単に実の豊かさを表したいのであれば、「わたしはオアシスのなつめやし」であっても良いと思うのですが、なぜぶどうをたとえとして選ばれるのでしょう。
 現在、イスラエルの政府観光局のシンボルマークは、大きなぶどうの房を担いだ二人の人物を図案化したものです。この二人はヨシュアとカレブで、民数記に記してある、約束の地に偵
察に行った二人が豊かに実ったぶどうを担いでもどったという物語に由来します。
 ですから、イスラエルの人々にとってみれば、ぶどうは単に沢山の実をつけるというだけでなく、神様の約束の豊かさを象徴する食べ物だったということです。
エジプトから砂漠や荒れ野を越えて旅してきたイスラエルの人々は、この約束の地のことを、「乳と蜜の流れる土地」と呼んでいますが、気候の厳しいパレスチナではヨルダン川流域の土地の豊かさはたとえようもなかったでしょう。
しかし、そのイスラエルでも夏の乾期の2〜3カ月間は、一滴の雨もふらない場所もあるそうです。そういう土地のぶどうは何十メートルも根をしっかりと張り、やせた土地からでもゆっくりと養分を吸い上げ、豊かな実を結ぶそうです。すこし根を出せば、いくらでも水も栄養も手に入るような場所に育ったぶどうよりも、むしろそのような場所のぶどうの方が甘味の強い実を結び、よいワインもできるそうです。
シラ書の中には心を浮き立たせ、飲む人を陽気にさせて、人生に楽しみと活力を与えるものとして、量と時をわきまえて飲むお酒の効用を記している箇所がありますが、そのようにぶどうは人々にさまざまなかたちで喜びや楽しみをもたらしました。
イエスさまがたとえとされたぶどうの木は、非常に生命力にあふれ、過酷な環境にあったとしても、その木につながる枝はすべて豊かな実を結び、人々に喜びを与え、枯れることのない木だったのです。

  あなた達はその枝
聖パウロはコリントの信徒への手紙二の中で、「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたし達を通じて神に対する感謝の念を引き出します。」と記しています。
今年も暑く雨の少ない夏が終わりました。実生活の中でも、この期間順風満帆ではなかったかもしれません。しかし、そのような中だからこそ、神様は豊かな恵みをもたらすための恵みを与えてくださるわけです。
収穫の秋、主が私達に望まれる実を豊かに実らせ、共に生きるようにと与えていただいたこの世界の隣人と、恵みと喜びを分かち合えることができればと思います。


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