明らかにされた愛

司祭 アンデレ 中村 豊

 まもなく2002年のクリスマスを迎えます。ここ10年、イブの夕方は神戸市内に向かう道は大渋滞となります。家族、友人、恋人のためにプレゼントを買い求める人でデパートはごったがえし、食事をしようとする人たちでレストランは大にぎわいです。人は誰しも幸せな気分に浸りたい時を求めます。それがたまたまクリスマスの時期ということになり、いつの間にか年中行事の一つに組み込まれてしまったようです。しかも、ほとんどが自宅外での楽しみとなっています。ちなみに、クリスマス・イブの夜、2000年前ユダヤのベツレヘムで生まれたイエスという人の誕生の意味やそれにちなんだ音楽をきこうとして自宅のテレビチャンネルをいくら回しても、これに関する番組は皆無に等しいことに気づかされます。要するにクリスマス・イブといってもわたしたちの国では大都会は別として、普段と全く違わない夜なのです。
世界の現実
 この夜、外で食事をしようと思っても誰も相手がなく、独りぼっちで家にいる若者は惨めそのものです。寂しそうにこたつに入り、紅茶やビールを飲みながら目の前のケーキをつまむという、誠に侘びしい夜を過ごす羽目になります。こんなことならクリスマスなんかないほうがよっぽどよいと、恨めしく思ってしまうのです。
 神戸市内の教会のほとんどはクリスマス・イブの夕方、礼拝をもちます。そこでいったい何が語られるのでしょうか。恵まれた生活、美味しいごちそう、仲間内の楽しい交わりのことではなく、この世で実際に起こっている苦しみや悩みです。
 景気は冷え込み、多くの企業は倒産の憂き目に遭い、失業者が増大している。一日当たり約100人が何らかの事情で自殺に追いやられている。これが日本の現実です。外国ではどうでしょう。昨年9月11日の同時多発テロ事件を契機にして、アフガニスタンでは戦争が勃発し、中近東ではイスラエルとパレスティナ自治政府が対立し毎日のように自爆テロ事件が起こり、罪のない多くの人たちが巻き添えを食って命を失っている。エイズが、特にアフリカで蔓延し、多くの人たちが死にひんしている。世界の三分の二の子どもたちは餓えに直面している。
 キリスト教やユダヤ教、イスラム教という、同じ神さまを信じる宗教が関わった事件では、相手に被害を与えた当事者の多くは「自分は神さまを愛することにかけては世界で一番」という確信を持ちながら敵を追いつめ、それが正しい行為であるといってはばからないのです。この人たちが信じている神さまはそのような行為を本当に喜んでいるのでしょうか。
神を愛すること
イエスは、律法の専門家やユダヤ教の敬虔な人たちに向かって「全身全霊を尽くして唯一の神を愛しなさい」「あなたの隣人、しかもあなたが敵とみなしている人を自分のように愛しなさい」。この2つが(旧約)聖書の中で語られている最も大切な戒めだといわれたのです。人間世界ではじめて「神を愛すること」と「隣人を愛すること」が切り離せない事柄であり、しかもこの戒めは机上の空論ではなく、実際にそれをおこなってはじめて意味をもつといわれたのです。「自分は神さまを愛することにかけては世界で一番」であるといいながら、自分の意に添わない人たちを中傷したり、抹殺したりすることは神様の御心に反する、とんでもない行為であるとイエスは断言します。

隣人に対する責任
 「自分のように」とは、字のごとく、自分のためにこうあったらいいと思うことです。隣人を愛するとは、他の人も自分のようであってほしいと願うばかりではだめなのです。自分から進んで、隣人もそのようになるために立ち上がることなのです。
 私たちはよりよい生活をしたいため、自分の能力を充分に発揮するために様々な仕事につきます。快適な生活を送るために寝食を忘れて働きます。子どもに充分な教育を授けさせるため努力を惜しみません。何の心配のない老後を送ろうと蓄えを増やします。
 隣人には関わりのないことでしょうか。私たちが空腹を感じるとき、何か食べるために努力します。同じように、ひもじい思いをしている人に食べ物を差し出し、裸の人にはどうにかして服を与え、独りぼっちでいる人を訪ね励まし、孤独にある人の声に耳を傾けることが求められます。自分のため最大限努力を払うのと同じように、隣人が人間らしく生きるためにもわたしたちは戦いを挑まなくてはならないのです。
 2000年前ベツレヘムでお生まれになった幼な子は、その生涯を通して自分を捨ててこの2つの戦いに挑み勝利したのでした。このことをお祝いするのがクリスマスの意味なのです。


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