大斎の意味

司祭アンデレ 中村 豊

  3月5日(水)いよいよ2003年度の大斎を迎える。
この日、礼拝に参加する人たちは灰の十字架を額に記される。この灰は、悔い改めと、いつかは死に至る存在であることの「しるし」である。大斎中この2つのことを思い起こし、信仰の振り返りのときとして有意義に過ごすことが求められる。
 
ピーターと神学生
 30数年前、ロダ館のそばの平屋に、退職された婦人伝道師が住まわれていた。厳しさのなかにも気品が漂う方で、お茶の時間に神学生を時々招待してくださり、本場の紅茶の飲み方を伝授してくださった。元々品性のかけらもない私たち神学生ではあったが、この時だけは高級な雰囲気に浸り、何となく自分たちも上品になったつもりでいた。先生の気品は回りの人だけではなく犬にまで伝わっていったのだろうか。先生の飼い犬ピーターに「ジョン」と名付けられた赤ちゃんが生まれた時のことである。中東の人たちが豚を食べない理由の一つに、「豚というのは他を顧みずにえさを貪り食う、その卑しさにある」という一節を読んだ記憶がある。犬も同様で、与えた餌は他を押しのけてでも腹一杯食べないとおさまらない動物だと思っていた。ところが、ピーターに関してはそれが当てはまらない。夕刻、大聖堂の庭で先生が夕食の餌を与えても絶対に手を付けない。息子のジョンが満腹した後その余りを食べ満足しているのである。同じ時刻、神学寮では豚鍋の争奪戦が繰り広げられている。鍋に箸を突っ込み、はさまったものを素早く口に入れまた箸を入れる。ともかく、早さが勝負である。出遅れると、その夜はひもじさの余り睡眠まで妨げられるかも知れない。その時ひとりの神学生が台所に駆け込んだ。戻ってきたその手にはお玉がしっかり握られている。それで鍋の具を目一杯すくい、瞬く間に食べてしまったのである。あっけにとられているうちに、再度すくい上げ、口にほうばるのであった。お玉を隣の人に貸すつもりはもうとうない。しかも寮にお玉は一つしかないときている。これはルール違反で卑怯ではないか! 「何で自分だけそんなことをするんや」「ええやん、箸だけで食べろとは誰も言えへんかったで」
 他の者はどうなろうが知ったことではない。自分だけが充分に食べれれば宜しいと思っている人間と犬の「ピーター」を比べると自ずから、どちらが立派であるすぐにわかろうというものである。
 心の内に次から次に沸いて心を独占してしまう様々な欲望をどのよう制御すればいいのか。大斎中の大きな課題なのである。

神の憐れみ
大斎始日、「どうかわたしたちのうちに悔い改めの心を新たに起こしてください」と祈る。「悔い改めの心」とは「打ち砕かれた心」という意味がある。罪の重荷に耐えることのできないほどみじめな状態をいう。しかし、耐え難いほどの罪を自分は犯していないし、みじめな状態ではない、と多くの人が思っていることであろう。実は「みじめな状態」とは、神さまの憐れみの対象をいっているのである。
「同じ線路の上を満員の乗客を乗せた2つの急行列車は時速90キロの速さで反対の方向から同時に走りだしたとする。高いところからそれを見下ろしている人間には40秒以内に正面衝突という大惨事が起こることは明らかであり、乗客たちを憐れみの対象として考えずにはいられない。乗客自身は自分たちを憐れみを受ける人だとは思っているわけではないけれども、確かに憐れみに値する人たちなのだ。」
        (C・S・ルイス)
 人はいずれは死を迎える人生を送っている。その現実を受け入れることで、私たちの日々の生活のなかにかいま見ることが許されている永遠の命に触れることが可能となる。しばしば私たちが背負う苦しみや悩み、悲しみの中にあっても、そのような状態に置かれているからこそ、私たちがどのようにそこから立ち直り、完全な生き方をしなければならないかを知るのである。


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