日々新たに−ウイリアムス神学館に入学して

ミカエル 相澤高士
 今年の春よりウイリアムス神学館にて学びの機会を与えて下さり、また暖かく送り出して下さったことを心から感謝します。先月の七月二十七日、久しぶりにミカエル教会の皆様にお会いでき、とても嬉しく思いました。
今日は自費神学生としての、この五ヶ月間をご報告したいと思います。

初めての司式

 ウイリアムス神学館での生活は朝の礼拝により始まり夕の礼拝に終わります。聖餐式を除く全ての礼拝の司式は学生が当番で行います。一部、ウイリアムス・ルールもありますが、基本的には祈祷書の通りです。
 これまでは、ミカエル教会で朝の礼拝やや夕の礼拝に出席することはあっても司式をするわけではありませんから、初めて司式をした時は「混乱した」と言うよりも正に「開き直った」と言う方が的をえていたほど指導を受けながらの司式でした。
 不慣れながらも毎日取り組む中で、時間の経過とともに少しずつ祈祷書の構成が理解でき始め、ルブリック(注釈)の理解も含めてかたちになって来たように思います。

主を知ることは喜び

 毎日の勉強で何が一番大変かというと、やはり、バイコン(聖書内容試験)とギリシャ語だと思います。今のところは私なりに頑張っています。
 その他の授業で気づいたことは、これまで聖書は「聖なる書物」としての「絶対性」を信じてきましたが、聖書が編集されていく背景などにより執筆者の意図するものがそこには反映されていることを知りました。もちろん一年目は「入門編」ですから聖書学のこれまでの研究を踏まえた上でどのように釈義をすべきかは二年目以降の学びを待たなければなりませんが、少なくとも今まで、全ての基礎となる聖書に対してこのような観点から接したことのなかった私にとっては非常に素晴らしい学びの時になっています。
 中でも一番の収穫は、これらを通して自分にとって必要な学びが何であるかということが、漠然としたものから少しずつ見え始めてきたことだと思います。
 私自身、盲目的な信仰から歩み始めましたが、今のウイリアムス神学館での学びを通して、知性と霊性の両輪によって良く学び良く仕えることができるようになりたいと思う次第です。

浜田での豊かな交わり

 この夏は、島根県の浜田基督教会にて三週間、教会実習をさせて頂いています。現在の浜田は、専任牧師がおられず、平野司祭が管理牧師として隔週毎に来られているそうです。
 先日、平野司祭に連れられてある信徒さんの家での聖餐式に臨席しました。平野司祭が週報を手渡すとご主人は涙を流し身体を震わせながら週報を読んでおられました。
その方は八代斌助主教の時代からここ浜田で、ご夫婦ともに、教会に仕えておられたそうです。「当時、八代主教は、『人に車を運転して頂いている時は眠らない』を信条としていたと人から聞きましたが、わたしが運転する時はいつも気持ちよさそうに眠られた」。これはまたご主人の喜びでもあったとおっしゃられました。
ある時、ご主人が不慮の事故で寝たきりとなり、教会に行くことができなくなりました。教会も様々なことから以前とは変わり、その後、五年間も主の愛餐を受けることができなかったそうです。
そして今は、平野司祭の訪問により再び「交わり」がもてるようになったことを心から喜んでおられました。

幼子のような「良い畑」

 ここ浜田の教会には保育園があります。八月十一日には、子どもの礼拝の中で、つたないながらも私がお話をさせていただきました。四歳から六歳の子どもたちが出席しておりました。本当に純粋で真っ直ぐに見つめる子供たちの目は素晴らしく、また心地よさを感じさせてくれます。
 それ故に「自分はちゃんと主の種を良く蒔くことができただろうか」と自問自答を繰り返してしまいます。一方で、自分がいつも教会で御言葉を耳にしている時、この子供たちのように「良い畑」となって主の御言葉を宿すに相応しい心で御前に集っているかを考えさせられました。
(相澤兄は当教会「かをる基金奨学金」を得て勉学中です)


© 2001 the Cathedral Church of St.Michael diocese of kobe nippon sei ko kai