献げられた生活

司祭パウロ上原信幸

 昨年来神されたタクロバオ主教様の案内として、神戸の街を歩きましたが、その途中立ち寄った湊川神社で、何組かの宮参りの方々を見かけました。
「日本の習慣では、親ではなく祖母が赤ちゃんを抱くのです」などと説明した私も、実のところ宮参りを見るのは初めてでした。
 イエス様の場合は、律法のきよめの規定に従って、割礼(命名)から33日目に宮参りをされます。「お宮参りは二月目、桃が咲いたら初節句」という歌を聞いたことがありますが、日本の習慣でも、命名はお七夜、二月目に入る生後32日から33日目に初宮参りをするということで、日数が非常に似ているのは興味深いことです。

被 献 日
ユダヤでは人も羊などの家畜も、初子は神に属するものとされていました。財産である家畜に子どもが生まれると、手許に置いてもっと数を増やしたいのが人情です。
それをあえて献げてしまうというところに、神様を中心とした生活をしようという精神がみられます。
子どもの場合も、その子は神に献げられるものでしたが、動物のようにいけにえとして献げることはできないので、代わりに動物が献げられていました。
また、イスラエルに生まれた初子を代表して、レビ人が神に仕え、他の子どもは、その代償として銀で買い戻されるという規定が民数記にあります。
 このように教会暦の中で2月2日は、神の民の一員として幼子イエス様が、神様に献げられたことを記念する日と、位置づけられています。
 カトリック教会では、この日を主の奉献の日と呼んでいますが、
1996年からは世界奉献生活の日と制定されています。
 単にイエス様が献げられた日の記念としてではなく、自らを献げることを信徒全ての課題として取り上げられているわけです。
 
主教選挙
 神戸教区では、2月11日に教区主教選挙のための教区会が開催されます。
 日本聖公会法憲法規の第1章に主教選出の手順が記されていますが、それは@選挙、A他教区主教による同意、B当選者の同意という順番です。つまり本人の意志は一番後回しにされるわけです。
 主教に選ばれたことを知り、身を隠そうとしたアンブロシウス主教(聖アウグスチヌスの恩師)の他にも、責任の重い主教選出が意に反するどころか、その時まで選出されるなど夢にも思わなかった例もあります。中には初代教会のパウリヌス主教のように、縛られて祭壇まで連れてこられ按手されたという方もあるそうです。
 最近横浜教区と京都教区の主教按手式に、出席させていただきましたが、「おめでとう」のかわりに「もうしわけない」という言葉をしばしば耳にしました。
新主教が与えられた教区にはめでたいことであっても、本人には「重責を負わせて申しわけない」という気持ちで一杯だというのです。
 主教按手式の特祷には、「わたしたち一人ひとりが、召された奉仕の業を通して、主の愛の器となることができますように」という祈りが記されています。
 よく「主教様をお助けして」という言葉を耳にしますが、主教職の務めは「牧者の長として、洗礼を受けたすべての人にその賜物を保たせ、奉仕の務めを励ます(主教按手式諮問)」というものです。
「主教様のお働きを私達が助けて」というのではなく「私たちの働きを、主教様に助けていただいて」というのが本来の姿です。
 被献日、そして主教選挙を迎えようとする2月、私たちの生活が、神様と人への奉仕のために献げられたものであることを覚えたいと思います。


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