孤独を味わう

主教 アンデレ中村 豊
 「神戸いのちの電話」から2003年度事業報告書が送られてきました。それをぱらぱらとめくっておりますと、「自殺念慮年代別応答件数」をまとめた興味深いデータが目にとまりました。

相談相手がいない
 総計では2003年は1,255件で前年に比較しますと約3倍に増えており、しかも30代の592件をトップに40代、20代、50代と続きます。内容に関しては人生問題が大幅に増えているということです。30代といえば社会に出て約10年、仕事にもある程度慣れ、目標を定めて働く決意を固める年代です。このようなとき、不景気で会社が倒産になり失業の憂き目にあったり、人員整理の対象にされたり、生活苦による借金返済もままならず次第に追いつめられたのでしょうか。もう死ぬしか道は残されていないというせっぱ詰まった状況でいのちの電話に相談を持ちかけていることが想像できます。
 5,6年前次のような話を聞きました。ローンを組んでようやく夢のマイホームを購入した大企業の社員がリストラにあい、会社を首になってしまった。解雇されたことを妻に言いだせず普段通り朝、背広を着用しかばんをさげて家を出る。何の当てもなくその日をつぶし、夜家に帰ってくるという生活を毎日続けている。しかし、最後には事実が露見してしまう、というものです。ほとんどの場合、自分の過失ではなく会社が原因で退職に追いやられたのです。それをどうして奥さんに告げることが出来ないのでしょうか。男子の本懐がずたずたに引き裂かれたと感じ、家族にまでそう思われてしまうのを恐れてのことでしょうか。家族の行く末を案じたのでしょうか。このようなとき、周りを探しても相談する相手が誰もいないというのは寂しい話です。

孤独の極み
 イエスは弟子たちと最後の晩餐に臨み、その後ゲッセマネの園にでかけ、一人祈りを献げました。逮捕されむち打たれ、十字架にかけられて死ぬかもしれないという運命を、「わたしは死ぬばかりに悲しい」とイエスは告白しました。その苦悩があまりにも激しかったので、「血の汗が流れた」ほどであったのです。そして、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と願いました。耐えることのできない痛みや苦しみがそこにあったからです。それなのになぜ、「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と言えたのでしょうか。イエスは強靱な精神の持ち主で、確固たる決意と勇気があったから苦難と死を甘んじて受け入れられたのではありません。最愛の父なる神の御心に従おう、御心に全てをゆだねることが求められていることを祈りを通して知るに至ったからです。
 
天使の励まし
 主イエスが苦しみの極みのなかで祈っていたとき、「天使が天から現れて主イエスを力づけた」とルカ福音書は記します。5bぐらい離れ主イエスの様子を見ていた弟子の誰かがそれを確認したような記事の書き方なのです。天使がそばにいて励ましている。それは悲しみの中ので慰めであり、闇の中、絶望の中での希望の光です。天使はイエスの孤独と苦しみを取り去るためにそばにきたのではありません。イエスの苦難を共に分かち合うため、それを引き受けるよう力づけたのです。
 多くの人が人生に苦しむのは、自分の孤独を取り去ってくれる友との出会いを切望しているからです。しかし他人は、自分の望みを決してかなえてはくれない。寂しい自分を慰めてくる相手を探してもそこには本来の成熟した人間関係は成立しないからです。ではどうすればいいのでしょうか。「すべての心は主に現れどのような秘密もみ前に隠れることは」ない神に裸の自分をぶつけることです。その時、必ず神の御心を携えた天使のような人がそばに現れ慰めと勇気を与えて下さるのです。


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