活動を通して見えてきた社会
          −野宿者のこと

錦織 恵理(芦屋聖マルコ教会)
私は2年ほど前から、毎週水曜日夜の「夜まわりの活動」に参加している。その中で見えてきたこととは、自分を含めて、社会全体に想像力が欠けているということ。野宿をしている人の状況、気持ちを想像すれば、出来るわけがないと思うようなことが、まかり通っている。自分自身もまた、言葉、態度、対応、その他もろもろの面で、やりきれていない部分が多い。想像力ということを考える時、もう何年か前のことになるが、次のようなことを思い出す。
 大学時代、私は社会学部に在籍していた。社会学とは何かと問われると一言ではなかなか説明が難しいのだが、まあ、言ってみれば何でも研究対象にしてしまう学問だ。
 大学4年の時に、ある学会に出席する機会を得た。発表の中で、「非日常」をテーマとして学生たちが撮った映像を流しつつ分析するというものがあった。流れてきたのは、閑静な住宅街で人の家の前にダンボールハウスを作って待機し、通行人や住人の反応を見るという内容の映像だった。それを受け、発表者はにこやかに説明をし、場内には何か笑い声が起こっていた。私の目には気がつくと涙があふれていた。どうしようもない混乱状態になって、席を立ち、外に出たのだった。
 別に、「かわいそうな人たちをネタにするなんてけしからん」などということを言いたいわけではない。ただ、そこには圧倒的な想像力の欠如があるのではないかと思うのだ。ダンボールハウスで寝ざるを得ない人の気持ちを少しでも想像すれば、とても出来ることではないと思うが、想像をしなければあり得ることだろう。
 差別されている者の気持ちは差別されている者にしか分からない、というようなことがよく言われる。確かにそうである。しかし、それでも何とか想像力を働かせて、当事者に寄り添ってみるということが重要なのだと思う。
    (新世紀より転載)
【※錦織恵理姉はカトリック社会活動神戸センターの野宿者支援グループに属し、毎週水曜日2人一組になり、午後8時頃から十時まで神戸市内の、担当の場所を巡り野宿者の安否を確認する奉仕活動を行っておりまります。】

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