子どもに命を与える保育者

主教 アンデレ 中村 豊
  (聖公会保育連盟保育者大会聖餐式説教抜粋・二〇〇四年七月二三日)

聖書箇所  ヨハネによる福音書十章 三節、四節

「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。」

 この説教をするに当たり、今の保育者に要求されているものは何かを私の関係する幼稚園の園長と主任に尋ねてみました。即座に「それは先生の感性を豊かにすることです」という答えが返ってきました。

豊かな感性

 感性というのは「外界の刺激に応じて感覚・知覚を生ずる感覚器官の感受性」と広辞苑で説明しております。保育の目的の一つは園児の心と体を動かし感受性の強い子に育てることです。
 カラオケボックスに多くの若者が出入りします。歌うことによって、それを無理矢理聞かされる他人に不快感を与えようが、本人は気持ちがよくなることは間違いありません。では、幼稚園・保育園ではどうでしょうか。子どもたちに、先生は本当に気持ちよく歌っているのだろうか。先生が乗り気でなければ、絶対に子どもたちには歌う楽しさが伝わってこないのは当たり前の話です。絵本を子どもたちに聞かせ、あるいは、一緒に散歩して、先生は「ああー、楽しいな」と自分自身が感じているのか。カリキュラム通りに、言われるままに、義務的にこれらを行っている先生が最近増えてきているのではないか。実体験の無いままに保育をするということは子どもにいい影響は与えるはずはありません。
 体を余り動かさず、言葉を用いて保育する場面にしばしば出くわします。子どもが喧嘩をした。先生は悪い方の子どもの非を認めさせようと懇々と諭している。聞いている子どもといえば、言葉の意味するところを理解する能力が十分に備わっていませんから、自分が悪かったことを心から納得できない。それでも最後は言われるとおり「すみません」と謝る。このような子どもが大きくなると、「口達者」になりかねません。

心の栄養

 三十年以上も前の話です。神学生として米子の教会に勤務していた時、何かの用で大山に休養に来ていた宣教師ご夫妻を旅館に訪ねました。部屋に入りますと、ちょうど生まれたばかりの赤ちゃんが泣いておりました。お母さんはどうしたかというと、赤ちゃんを両手でかかえあげ、おお泣きしている赤ちゃんをじっと見つめ続けているのです。何のためにそうしているのかその時にはわかりませんでした。後から考えてみますと、赤ちゃんを慈しみのまなざしで見つめ、「心の栄養」を与えて泣きやむのを待っていたようです。当時、スポック博士の育児書が大流行し、授乳は三、四時間おきでよいと指南していました。宣教師の奥さんは恐らくこの本に忠実に従って、決められた授乳時間前に泣き叫ぶのでこのような振る舞いにでたようであります。

三つ子の魂

 E・H・エリクソンの「アイデンティティー」及び「幼児期と社会」という本の中で、次のような文章があります。 アメリカ先住民スー族の年配者が、白人の親が幼児を泣くに任せて放っておくのを見て、「『これできっと肺が強くなるのだ』とこのお母さんは信じている」とけなしております。ではスー族ではどのように躾ているのでしょうか。幼児は二才になるまで母乳を与えるのは普通です。赤ん坊が初めてかむことをおぼえ、その手始めとして母親の乳首を噛む。母親はどう対処するかというと、赤ん坊の頭をごつんと殴るのです。赤ちゃんは当然顔を真っ赤にして狂ったように怒り出します。そこでお母さんは揺りかごに子どもを寝かせ首まで革ひもで縛り付け、泣きやむのを待っているのです。なぜこのような躾をするかというと、それによって子どもは忍耐を学び、立派な狩人に成長するものだと信じているからです。このような繰り返しで乳児はおっぱいを飲むことを許してもらう為には乳房をかまないことを学んでいくのです。
 スー族や白人の、赤ちゃんに対する躾の方法は、何が子どもにとって最上のことなのかというねらいがあり、子どもがどのようなふるまいをしてよいかは、その子どもがどこでどのような人になるよう期待されているかによって異なるものだということです。
 幼児はすでに誕生直後から、自分が属する社会や固有の文化の「かたち」に出会います。最も単純かつ初期のかたちとは得ることです。それは「獲得する」というのではなく、与えられたものを受け取るという意味においてです。これが巧くいくときは問題はありませんが、何か妨害が入ると問題が発生します。、不安定で手探り状態の新生児が、このかたちを学習するのは、次のような場合だけだとエリクソンは言います。
 「子どもは、母親のやり方に従って自分が求めるものをどのようにして『得る』かを学習し、母親は逆に、与える手段をいろいろ考慮、整合する。そうすることによって幼児は得る手段をきちっと合わせることができるようになる。そのようにして与えられるものを得、自分にしてほしいことを他人にさせる術を学ぶにつれて、乳児は同時に、自ら与える者になる。つまり、母親と一体化し、ついには他人に何かを与える者になるのに必要な下地をも発達させてゆくのである。」
 自分のクラスの子どもたち一人ひとりが何を求めているのか、それに応えて保育者はその子どもの状況に応じて、最もふさわしいものを与えるように求められているのです。つまり、子どものニーズを細かく受け止めるに必要な感性が保育者に求められているのです。その感性というのは共感(コンパッション)をおぼえることが前提にあります。

共感する子ども

 かって私が幼稚園の園長をしていたとき、朝、ときどき子どもたちと「プロレスごっこ」をしました。これを始めますと五,六人の子どもたちがからだにまつわりついてきて離れません。逃げても追いかけてきて首や腰、足にしがみついてきます。その中の一人に運動神経が抜群な子がおり、しつこくわたしに挑んできます。最後のとどめは背後からの回し蹴りです。わたしは足の皿を思いきりけられ、痛さの余り運動場にうづくまりました。もう「プロレスごっこ」どころではありません。教室入口の段のところで座り痛みが去るのをじっと待っておりました。そうしますと女の子が2人、私の側にやってきて、「先生、痛かったでしょう。大変でしょう。私も何回もやられたことがあるのよ」と言ってしきりに私を慰めてくれるのです。驚き感激しました。このような小さな子どもでも、大人であるわたしの気持ちを理解し、共感を覚えてくれるのです。この腕白坊主、某県の中学で体操のホープになっております。

信頼関係の構築

 キリスト教に基づく保育を実施しようとする先生は良き羊飼いとしての資質を備えるため不断の努力が求められます。主イエスが言われたように、良き保育者は自分に従う子どもたち一人ひとりを知っており、子どもたちも自分たちの先生を自分なりのかたちで知っています。保育者と子どもたちとの間には、お互いの信頼、思いやり、相互の愛がそこにあるからです。保育者に従う子どもたちを正しく導くためには、子どもたちからの励ましと支えも同時に必要なのです。
 指導者と指導者に託されている人々との間にあるべき愛に満ちた信頼関係を示すために、イエスはご自分を「良き羊飼い」と呼ばれました。「良き羊飼い」はあるときには道からさ迷い出た羊を探すために出かけ、命がけで羊のために尽くします。同時に羊を新しい牧草地、新しい命へと導く使命もあります。そこで羊は満ち足り、力強く成長します。
 子どもたちの心を救い養い育て、力を与えて、神さまの御心にかなった子どもとして成長させるというキリスト教保育の神髄をわたしたちは「よき羊飼い」の姿勢から学びます。このような保育の業を通して保育者も同時に沢山の恵みと祝福に預かることができるのです。



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