阪神・淡路大震災10年記念礼拝

今年1月17日で阪神・淡路大震災十年目を迎えました。節目の時にあたり、6千余名の震災犠牲者を追悼し、併せて痛手を受けた神戸教区内教会、諸施設そして被災教会員に支援の手を差し伸べて下さったことを深く感謝し、約300名の出席のもと記念礼拝が聖ミカエル大聖堂で行われました。
 小南晃司祭(震災時神戸聖ペテロ教会牧師)は説教で「この地で6千余名もの人々が『なにゆえに』無残な死を遂げねばならなかったのかと、いたたまれない思いを胸に刻み込み、切なるうめきをもってその人々の魂の平安を主に委ねること、これが追悼であります。同時に震災は悲劇であったと同時に人間にとって大切なものは何かを気付かせる貴重な機会ともなりました。人間の無力さを思い知らされ、人間が自己の力を過信する時には、必ず神を忘れる罪が潜んでいることを痛感しました。そしてボランティア元年と呼ばれたおびただしい数のボランティアの活躍です。何か出来ることをと一歩踏み出し、焼け石に水と思われる僅かな提供、それが思いがけない展開になり得ることを目にしました。この十年間の年月は『喉元過ぎれば熱さ忘れる』の格言そのままであったということでした。私にとってこの礼拝の意義は、何よりも『震災をいつしか忘れてしまっていた自分』に気付かされたことでした。神戸教区として、またキリスト者として私たち一人ひとりは災難の犠牲者を悼み、人々にその悲劇を想起させる「語り部」としての努めと、その犠牲を空しくしないために人々に悔い改めを呼びかける『見張り人』の使命を負っているのです。」と述べました。西川晃兄(明石聖マリヤ・マグダレン教会信徒)は10年前明石聖マリア・マグダレン教会牧師館での猛烈な揺れを体験し、夜が次第に明け周囲が見えだして、少しずつ状況が分かりだし愕然としたのでした。その日の夜、山陰から中国から、牧師さんが様々な救援物資を持って集まり、その迅速な行動と支えてくれる人がいるという存在に感激したのでした。「沖縄には気の毒とかかわいそうという言葉はなく、きむぐるし、肝が苦しいという、まさに内蔵が震えて、はらわたが煮えくりかえって苦しくて、いてもたってもいられない状態を意味しており、ある人によればボランティアとは怒りの共有で、『かわいそう』という上から下への同情ではないとのことです。実際はあちらこちらでこのサマリア人のたとえ話の実践があったのではないでしょうか。あの時、人は支えあってこそ、生きていけるのを実感させられたのだと思います。勿論、今になってるからこそ言えます。それを、学ばされたのが、震災があった日の夜の出来事だったのかも知れません。」と証ししました。
 礼拝後「震災から10年」をテーマにした被災教会・教区、関係諸施設のパネル展示を見ながら、豚汁とごはんがセットされた「震災ランチ」をいただき、当時を思い出しました。礼拝の信施金約19万円ははスマトラ沖巨大つなみ被災者のために献げられました。






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