変わらないもの

司祭 ヨハネ 芳我秀一

 イースターおめでとうございます。昨年の3月末に当教会に赴任してから早いもので一年が過ぎました。聖ミカエル教会で復活日を迎えるのは今年が初めてですが参列者のの多さに驚きました。
 毎年、復活日を迎えますが、全く同じ復活日というのは存在しません。私自身も昨年の復活日と現在の私とでは全く違っていることに気づきます。もちろん、自分は全く変わりないと感じる人もおられるでしょう。しかし、生活環境が変わり様々な人々の出会いや出来事を通して学習する中で私自身がどんどん変えられてきたという事を復活日に感じました。

〈変わらない私〉
 昔読んだ『逆さメガネ』(養老猛司著)という本の中で著者は、「知るということは、本質として自分も変わるということだが、現代社会の人はそれが無くなってきている。そして現代社会の常識は『変わらない私』だ」と云うのです。現代人は新聞やテレビまたパソコンなどによってたくさんの情報を得ますが、それらを蓄積するのみで決して自分自身が変わるための情報とは思っていません。従ってテレビのニュースや新聞の記事などは毎日次々と読んでは捨てられていくはかないものだと思っています。そして読んでる自分はいつまでも変わらない存在だと現代人は思いこんでいるのです。果たしてそうなのでしょうか。以前、100年前の新聞を見たことがありますが、そこにある情報は100年経っても存在するし、これからも存在し続けることができます。しかし、その新聞を読んだ当時の人たちの大半はもはやこの世にはいないのです。全く逆のことが起こっています。ですから現代人が如何に「逆さメガネ」でこの世を見ているのか、ということになります。

〈変わるものと変わらないもの〉
 自分は絶対に変わらないと思いこんでいたのは現代人だけではありません。実はイエス様の弟子たちも同じでした。彼らはどこまでもイエス様に従っていけると思いこんでいたのです。ところがイエス様が祭司長や民の長老たちの遣わした民衆によって捕縛されるに至って弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。彼らは全く変わってしまったのです。その変わりように最もビックリしたのは弟子たち自身ではなかったでしょうか。その後、裁判の行われていた大祭司の屋敷の中庭でペテロは三度もイエスを知らないと関わりを否定しました。そしてペテロは庭の外に出て激しく泣いたのです。結局、彼らは十字架の受難と死に立ち向かわれるイエス様と出会うことによって自分たちが裏切り、従い続けることの出来ない人間であることを自覚したのです。そのような弟子たちに対して復活されたキリストは次のように言われました「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(ヨハネ伝20章21節)と。弟子たちは再び復活されたキリストに出会った時、裏切った自分たちを非難されることなく、むしろその罪を赦して下さり、変わることなく自分たちを愛し続けておられることを知ります。つまり、変わらないのは「私」ではなく「神の愛」だったということに気づいたのです。弟子たちは再びキリストの使徒として召されて、今度は永遠に変わることなく従い続ける者に変えられてこの世に派遣されるのです。

〈変わる私〉
 「変わらない私」が常識という現代社会ですが、現代人はますます自己中心的になり、自分一人でも生きていけると錯覚します。このような社会だからこそ私たちは、神がイエスをこの世に遣わされ示されたように、孤独な人たちや助けを求める人たちに「憐れみの心」を持つことが求められています。


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