生きる気力

司祭 ヨハネ 芳我秀一

六月の初旬に沖縄教区、九州教区及び神戸教区の三教区合同の教役者修養会が佐賀県唐津市にある海辺のホテルで開催された。当日は天候も良く、博多から各駅停車の電車に揺られ右手には穏やかで美しい玄界灘を見ながらのんびりとした旅を満喫させて頂いた。三教区合同の修養会は珍しいが、約50名の教役者が集まり親睦を深めた。また、それぞれ風土や文化及び歴史の違う教区が、どのような宣教活動を展開し、また将来展開しようとしているのか、多くの主にある同労者たちと共に語り合い、活動を共有出来たことは大きな喜びであり、大きな励ましだった。

〈厳しい現実〉
 しかし、同じ現実の世界でも各地で戦争や紛争が絶えることはない。聖公会においても、同性愛者の主教按手を認めるアメリカ聖公会とそれに反対するアジア・アフリカの主教たちとの関係が悪化して分裂の危機に陥っている。お互いに対話が出来なくて相手を理解できず、対話しても自分の主義主張を押し通している。これでは誰しも生きる気力を失ってしまうのではないか。

〈生きる気力〉
  ルカ伝第7章11節からナインという町で一人息子を失って悲しみに暮れる寡婦(やもめ)の物語がある。彼女は社会的に弱い立場にあり、唯一の希望だった一人息子にも死なれて生きる気力を失い、生きた屍状態になっていた。そこへイエス様が通りがかり、彼女をご覧になると憐れに思われ「もう泣かなくてもよい」と云われた。イエス様は彼女の痛みや悲しみがよく分かっていた。イエス様は棺に近づいて手を触れられ、「若者よ、起きなさい」と云われると若者は起き上がってものを言い始め、それから彼を寡婦に返された。おそらく彼女は一人息子が生き返って嬉しかっただろう。しかし、一人息子の生き返りは「蘇生」であって「復活」ではない。やがて彼は再び死んでしまう。これでは寡婦の喜びも一時的なものにすぎない。しかし、彼女の喜びは決して一時的なものではなかった。彼女はこの奇跡を通して死人をよみがえらせる程に生も死も全てを支配される方が生きておられ、その方が自分ごとき者に目を留めて下さり、憐れんで下さっているという事実に目が開かれたのである。自分は決して一人ぼっちじゃない。また同じ信仰の目を開かれ、互いに助け合える仲間たちがいるという事実がどれほど人に勇気と生きる気力を与えてくれるのかということである。

〈日本宣教の課題〉
  日本では9年連続で3万人以上の人々が自殺をしたり、また国民の4人に一人は鬱病あるいはその予備軍と云われるように多くの日本人が病んでおり、生きる気力を失っている。果たして日本人は生きる気力を持つことが出来るのか。これは将に宣教の問題。教会は、寡婦に対して「もう泣かなくてもよい」と言われたイエス様のように相手の思いや痛みをしっかりと受けとめられる感受性をもつことが求められているのではないか。


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