永遠への旅人

司祭 ヨハネ 芳我秀一

 “旅は道連れ世は情け”と言う諺があります。この夏も一週間の休暇をいただいて家族で北陸を旅する事にしました。自動車で北陸道を進み福井、金沢、富山と順番に市内観光をしながら各市内にある聖公会の教会を訪ねました。どの教会も街の中心にあって地域社会の中で良き働きをされていることが分かりました。

 〈無知な自分〉
  旅は様々な自然や文化と出会わせてくれます。その出会いによって世界が広がり、見えなかった物が見えてきます。金沢の兼六園を散策中に「かがぶとキュウリを買ってきて欲しい。」との携帯電話が入りました。神戸では既に手に入らないとのこと。聞き慣れない言葉に「なんじゃそれは」と問い直すと、金沢で採れるキュウリとのこと。早速、帰って旅館の女将に尋ねると近くの市場で売ってるとのことで、翌朝、市場に行くとありました。なんと普通のキュウリの4本分くらいの太さのキュウリです。デッカイ!果肉はウリのように厚いが普通のキュウリのようにやわらかく美味しいです。またサラダ、漬け物や煮物として食べられるそうです。今度の旅で、初めて加賀太キュウリを知りましたが、いかに自分が無知であるかということです。この世の中には知られない物事が無数に在ると云うことです。

 〈旅の途中で〉
  ドイツの詩人ゲーテの言葉「心ある人にとって、最高の教育は旅の中にある」と。つまり、旅をしながら様々な出会いを、開かれた柔軟な心で受けとめる時、そこに大きな学びがあり、新しい自分との出会いがあるということです。実は、イエス様も旅の途中で無知な弟子たちに様々な教えを与えられました。かつてイエス様は弟子たちを連れてフィリポ・カイサリア地方を旅されていた途中の出来事です。イエス様は弟子たちに次のような質問をされました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(マルコ伝8章27-30節)。イエスとは一体何者なのか。弟子たちには分かりません。ペテロは弟子たちを代表して「あなたはメシア(救い主)です。」と模範解答をしますが、彼が描くメシアとは政治的な偉大な権力者であって、人々に裁かれ、殺され、復活されるメシアではありませんでした。ですからこの後も、旅を続けながらイエス様は自分が一体何者なのかを教えられるのです。

 〈信仰の旅路〉   
  ところで旅に出る時に大切なことは旅の目的地がはっきりしていることです。もしも目的地の無い旅なら、その旅はどんなに淋しくつらいものでしょう。同じように人生も旅に例えられますが、果たして私たちは明確な目的地に向かって旅をしているのでしょうか。洗礼を受けた者は、この世への執着を絶ち、イエス様と共に永遠の故郷へ向かう旅の途中にあります。「人生の目的地」を問うことは、先ず私自身が何者なのか、さらに私を導く「イエスは一体何者か」を問うことです。皆さんにとってイエス様はどのような存在なのでしょうか。


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