巡礼の旅

司祭 ヨハネ 芳我秀一

 長崎港から西へ高速船で約1時間半、距離にして約 100qのところに五島列島がある。五島列島は大小140以上の島々から構成され、特にリアス式海岸で断崖絶壁が多く、またいたるところに内陸深くまで入り江が入り込んで風光明媚な自然に恵まれたところだった。また五島列島全体の面積は淡路島より少し大きい程度で、人口は約7万人である。その内の1万人がクリスチャンで、そんな狭い所に51の教会が建てられている。まさにここは隠れキリシタンの故郷でもあった。

〈五島列島の歴史〉
  五島列島の歴史は古く、縄文、弥生時代の遺跡が残っていたり、地理的に日本本土と中国との間に位置しているために平安時代には遣唐使の寄港地としても知られ、空海も寄港している。
  さて、この五島列島に初めてキリスト教が伝えられたのは1566年である。五島領主だった宇久純定の要請によって二人の修道士、アルメイダとロレンソが来島して宣教を開始したのである。宣教は順調に行われ、宇久純尭(領主の息子で後の戦国大名)を始め、多くの者がキリスト教に改宗したが、1587年(天正15年)に豊臣秀吉によって宣教師追放令が発布されるとキリシタンに対する最初の弾圧が始まった。さらに1614年には徳川幕府によるキリシタン禁止令が発布されると五島における弾圧も熾烈さを増して水攻め、火攻め、算木責めなどの拷問のために多数の殉教者を出し、キリシタンは壊滅状態になってしまった。彼らは隠れキリシタンとして生きることを余儀なくされたのである。
  しかし、やがて1873年(明治6年)にキリシタン禁制の高札が撤廃されると五島でも弾圧は収束へと向い、日本のクリスチャンは偏見と差別、貧困と迫害による心の傷を抱えながらも再出発することになったのである。

〈教会を建てるのは誰か〉
 ところで淡路島ほどの広さの五島列島に教会が51もあるということは驚くべき事実である。それらの多くは明治時代に建立されたものだが、この事実は一体何を物語っているのだろうか。

『わたしは言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。』   −マタイ伝第16章18節−

  この箇所は、イエス様が「わたしを何者だと言うのか」と弟子たちに尋ねた時、「あなたはメシヤ、生ける神の子です。」というペトロの答えに対するイエス様の言葉である。しかしイエス様はペトロの信仰が不完全であり、やがてご自分を裏切ることも知っておられた。にもかかわらず、イエス様はペトロ、また同じようにわたしをメシヤと信じて告白する者の上に教会を建てると約束して下さっている。これは大きな慰めの言葉ではないだろうか。イエス様を信じる者が全て殉教するのではない。拷問が恐くて踏み絵を踏んだ者たちも沢山いる。彼らも心の中ではイエス様を裏切ったという深い苦しみと悲しみの中で闘っている。そのような者たちに対してもイエス様は彼らの上に教会を建てると言われたのである。つまり、教会は決して特定の人間や信仰告白によって建てられるのではない。神の子イエス・キリストご自身がお建てになるのである。イエス・キリストは迫害に耐え、弱さの故に悩み苦しんだ多くの五島の人々に語りかけ、彼らを励まして教会を次々と建立させられたのである。
  美しい海面に映える教会群は五島のキリシタンたちに示された神の愛を見る者に伝えている。


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