目を覚ましていなさい

司祭 ヨハネ 芳我秀一

 今年も降臨節を迎えました。神の子イエス様をお迎えするための準備をする期間として大切に守りますが、果たして私たちは心からイエス様をお迎えしようとしているのでしょうか。

〈十人のおとめ〉
  マタイ伝第25章1節以下に「十人のおとめ」と呼ばれる譬えがあります。これはおめでたい婚礼の物語です。十人のおとめたちがそれぞれ灯火を持って、花婿を迎えに出て行きます。ところがそのうちの五人は愚かで、五人は賢かったというのです。何故なら、愚かなおとめたちは、灯火は持っていましたが、予備の油の用意をしていなかったのです。花婿はいつやって来るのか誰にも分かりません。真夜中、おとめたちが眠り込んでしまった時に、突然「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がして彼らは皆飛び起きます。油の準備をしていた賢いおとめたちは花婿をお迎えすることが出来ましたが、準備の出来ていなかったおとめたちは油を買いに行っている間に花婿は来て、お迎えすることが出来ませんでした。この明暗を分けた原因はどこにあるのでしょうか。

〈真実を見る目〉
  阪神淡路大震災直後、地方の教会の何人かの牧師たちは姫路の教会に集結して、用意してあるバイクで神戸市内に入ることになりました。その時、全員にガソリンの入った小型タンクが配られましたが、私は予備の油が必要であることには全く気づきませんでした。つまり、神戸が現在どのような状態なのか、被災した人たちが何を求めているのか、心を集中して考えていなかったと云うことです。そのことから推測すると、愚かなおとめたちは花婿のことをあまり真剣に思っていなかったのではないでしょうか。むしろ別のことに心を奪われていたのではないでしょうか。    私たちも今、神の子をお迎えしようと準備をしますが、降臨節は毎年のことですからマンネリ化したり、また普段はイエス様が必要と思いながらも、一方で誰の助けがなくても自分はこの世界で生きていけるのではないかと思ってはいないでしょうか。

〈声をかけ食事に招く神〉
  人間は鈍く居眠りをしてしまう弱い存在です。にもかかわらず神の子は既にこの世界に来られており、自ら私たちに語りかけてこられるのです。『見よ、わたしは戸口に立っている。誰かわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまたわたしと共に食事をするであろう。』(ヨハネ黙示録第3章20節) このように私たちに声をかけ、主にある宴会に招いて下さる方がいて下さる。私たちは決して独りぼっちではない、という真実に目が開かれる時、人は目をさましているということです。ですから現実の世界がどんなに荒廃し、どこにも希望を見いだせないような時であっても、神の御国へと招いて下さるキリストを仰ぎ見て共に歩むことの出来る喜びを感謝したいと思います。 どうか良きクリスマスをお迎え下さい。


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