聖職按手の神秘

司祭 ヨハネ 芳我秀一

 先日、大聖堂にて司祭按手式及び執事按手式が盛大に執り行われた。新しい司祭および執事の誕生は神戸教区だけでなく全世界の聖公会にとっても大きな喜びである。
  さて聖職は教会の信徒の中から選ばれ、訓練され主教より聖職按手を受けて誕生する。だから人が聖職になりたいと願い努力して決してなれるものではない。それでは外見は同じ人間であるが、聖職按手を受けた者とそうでない者との相違はどこにあるのだろうか。

〈権力と栄光〉
 司祭に按手された人間は、神から何か特別な超能力が与えられて超人のように変化すると考える人がいるかもしれない。しかし、果たしてそうなのだろうか。
 イギリスの作家グラハム・グリーンが書いた小説『権力と栄光』を読むと司祭の権威について色々と考えさせられる。主人公のウイスキー神父は手のつけられない乱れた生活を続ける司祭であるが、彼の住んでいる国でカトリック教会に対する迫害が起こり、他の神父たちはみんな逃亡したり、また殺されてしまった。このウイスキー坊主は非常に評判が悪く、みんなから嫌われていたにもかかわらず、その国に司祭が一人もいなくなって彼だけが司祭職の印章を受けた唯一の人間となった。その後、彼は警察の追跡を受けながらも様々の秘跡(例えば聖餐式の執行や赦罪など)を施すうちに次第にこの印章の力を強く認識するようになり、この体験が彼自身の人格を変えていく。その後、二度ほど国外に逃亡するが、罠と知りながらも再び国内に戻り人々の必要に応えるのである。しかし、結局、警察に逮捕され翌日処刑されてしまった。彼は意志の弱いウイスキー神父であったが最後は殉教したのである。
  この事は司祭職の印章を押された人間が超人でも魔術師でもなく、また聖職按手が単なる形式でもないことを示している。これは彼に刻み込まれた司祭職の印章によって引き起こされた出来事であった。

〈二つのキャラクター〉
 司祭とはこの永遠の印章を神より焼印のように体に刻み込まれた者で、死ぬまで消し去ることは出来ない。この印章は人間の状態に関係なくその人に刻み込まれた永続する印であって客観的キャラクタ−(character)と呼ばれている。一方、人間には誰しも生まれつきの人格があってこれは主観的キャラクタ−と呼ばれている。これらは一人の人間の中で対立するかのように見える。しかし、ウイスキー神父の場合には神から与えられた客観的キャラクタ−が絶えず彼に力を与え、彼の弱く汚れた主観的キャラクタ−を聖めて強めながら変えていったという事である。

〈聖職按手とは〉
  だから聖職按手とは人間に何か特別な超能力を与えることでは決してない。むしろ人間の人格や弱い意志を、キリストの人格と意志に服従させ一つにする神からの恵みなのである。キリストの苦難に満ちた務めを果たすために、教会にこのような恵みが与えられたことは大きな感謝である。


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