永遠に変わらないもの

司祭 ヨハネ 芳我秀一
  時々「復活って何ですか」と尋ねられることがある。その度に困りながらも「移り変わるこの世界の中に永遠に変わらないものが存在すること」と答えるのだが、その説明をしなくてはならない。

〈使徒聖トマス〉
  イエス様の弟子でディディモと呼ばれたトマスは、十字架の後、他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言っても 「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(ヨハネ伝20章25節)と言って全く信じようとしなかった。 その八日後、再び復活のイエスは弟子たちに現れ、トマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」(ヨハネ伝20章27節)と語りかけられた。その結果、トマスは直接、見て、触れて「わたしの主、わたしの神よ」と告白して信じる者に変えられたのである。しかし、実際にこのような出来事があったのであろうか。

〈見ないで信じる者〉
  今更、証明は不可能。しかし、ヨハネ福音書は西暦100年頃にヨハネによって書かれたと言われている。当時は、イエス様が復活されて既に約70年が過ぎており、キリスト教に対するローマ帝国の迫害が激しさを増してきた頃で、同じ信仰をもつ者たちが迫害に会い深く傷つけられて死んでいく姿をヨハネと彼の仲間たちは見ていたのではないだろうか。そして死んでいった仲間たちの体に残っている傷跡を見た時、彼らの背後で彼らを深く愛しておられるイエス様の傷ついた姿を思い浮かべたという事である。そしてヨハネは当時の苦しみの中にある仲間たちを励ますために「見ないのに信じる人は、幸いである。」とのイエス様の言葉を記したのではないだろうか。
 同じように現代に生きる私たちも最早、直接、復活のイエス様に出会うことは出来ない。しかし、毎主日、主の聖餐にあずかって、聖別されたパンとブドウ酒をキリストの体と血と信じていただき、一体とされる神秘を経験するのである。まさに聖餐のキリストの体と血は、トマスが見て、触れたキリストの傷ついた体を想起させる。このように直接、復活のキリストを見たり、触れたりすることはできないが、わたしたちはキリストの体と血にあずかりながら「見ないで信じる人になれ」とのキリストの語りかけを聞くのである。キリストはマリアさんに宿って以来、生前もまた十字架の死の後も変わることなく一貫して生きておられる。弟子たちに語りかけ、また現在のわたしたちにも語りかけ、これからも共に歩んで下さるのである。だからイエス・キリストはこの世界の中で永遠に変わらない方なのである。

〈それからの聖トマス〉
  さて伝説によれば聖トマスは回心後、復活の主の命令によってインドへ派遣され、東洋の異教徒たちの奥地まで分け入って福音を宣べ伝えたが、最後は満身に槍を受けて殉教したと伝えられている。


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