「現代の悪霊」

司祭 ヨハネ 芳我秀一

 二月と言えば「節分」。子供の頃「鬼は外、福は内!」と叫びながら豆を蒔いたものである。古来から、穀物や果実には「邪気を払う霊力」があると考えられていたので、豆を蒔くことによって邪気を追い出し福を呼び込もうとしたのであろう。この「邪気」とは人間に病気や災いをもたらす悪い霊のことで、悪霊を追い払うことは人間として自然な欲求であったと考えられる。

〈悪霊とは?〉
それでは教会は悪霊をどのように考えているのか。
福音書を読むとイエス様が悪霊を追い出される物語がしばしば出てくる。ルカ伝第9章37節以下にも悪霊に取り付かれた息子をもつ父親が悪霊を追い出すようにイエス様の弟子たちに頼んだが追い出せなくて、イエス様は弟子たちを次のように非難された。『なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか。』(ルカ伝第9章41節)と。この「よこしまな時代」とは本来まっすぐな神の道が曲げられている時代という意味である。つまり弟子たちはまっすぐな神の道を歩んでおらずまたこの世界には神の道を曲げてしまう力が働いていると云うことで、この力が悪霊ということである。

〈悪霊と教会〉
使徒聖パウロは回心後、シリアのアンテオケを中心に長く異邦人伝道に邁進した人である。「人は律法によって救われるのではなく、ただ神の恵みによってのみ救われるのだ」という福音の確信に堅く立って伝道した。そんな折、エルサレム教会ではまっすぐな神の道を妨げる偽兄弟がいることを聞かされて知っていた。彼らは律法を守り割礼をうけなければ救われないと主張していたのである。そのためパウロは彼の仲間たちと共にエルサレムに上り、エルサレム教会の重鎮たち、ペテロやヤコブ、ヨハネなどと話し合いをして自分の信仰が正しいことを確認して悪霊を追い出すために尽力したのである。この後も、教会はまっすぐな神の道を曲げてしまう様々な悪霊と戦って追い出すことになるのだが、果たして日本聖公会は大丈夫だろうか。

〈十字架は誰のため〉
先日、長野聖救主教会の信徒堀越(ほりこし)喜晴(よしはる)兄がご自分の著書『羊のたわごと』のPRを兼ねて当教会を訪問された。この方は目が不自由だが、言語学者であり大学の非常勤講師をされている。この本には次のような意味の興味深い内容が書かれていた。「いつごろからか、貧しい人、差別され抑圧された人、障害者、そういった言葉が教会の中でマントラのように繰り返されるようになった。そして“そういう人たち”こそ神の選びを受け、そういう人たちの側にイエス様は立っておられる。だから教会はそういう人たちと食事を共にし、奉仕しなくてはならないという。しかし本当にそうなのだろうか。」と著者は疑問を投げかけておられるのである。さらに「私も一人の障害者である。ということは、私もこの祝福された“そういう人たち”の中に入っていることになる。そこでこの考えを内側から眺め直すと、これがとうてい“そいう人たち”の身になって考えられたものではないことがよく見えてきた。なぜなら、私は障害者であって差別され、偏見を持たれてきただろう。しかし、それ故に私が神によみせられ、罪を免れているなどということは絶対にありえないからだ。」と記されていたのである。現在の日本聖公会の宣教方針の第一は「差別され、抑圧されている人々と共に、キリストの福音を分かち合うこと」である。しかし差別され抑圧されている人々を神が祝福されるのであれば、イエスは誰のために十字架に掛かられたのであろうか。


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