破れ口に立つ

司祭 パウロ 上原信幸

 聖書の中には、「破れ口に立つ」という言葉があります。「破れ口」というのは、城攻めなどで、打ち壊された城壁の穴の開いた場所で、敵と味方が入り乱れて争う戦闘の中心です。
 そこに立つ者とは、争いのまっただ中に身を置く者のことですが、惨禍のただ中に立つということで、災いを取り除く努力をする者、また敵味方の間に立って、とりなしをする者をも意味するようになりました。
 決壊した堤防の内で、また、壊れた原子炉建屋の周辺で、復旧にむけて懸命に働く方々の姿と重なります。
 旧約聖書で「祈る」という言葉「パーラル」は、もともと、仲裁する、間に入る、取りなすという言葉からきているそうですが、まさに、祈るとは、間に入って、身を犠牲にして、取りなすことを意味していたということです。

  間に立つ者

 さて、私はこれまでに何度か裁判の傍聴をしたことがあります。学生時代は授業の一環として、そして司祭となってからは、思いもかけず、裁判にかかわらざるを得なくなった方の、裁判の傍聴人としてです。
 供託などの手続きをお手伝いしたこともありますが、法律的な手続きは、試練のさなかにある当事者には、あまりに煩雑で、負担も大きいものです。泣きっ面に蜂とは、このことかと思います。
 裁判の中では、法律の専門家である弁護士さんが、代弁者・代理人として協力してくれます。人は裁判という普段の生活とはまったく違う緊張した状況の中では、思いもかけないような言葉を口にしてしまうこともあります。
 裁判という状況を想像することが難しくても、幼い頃を思い出していただければ、誰しも思い当たることがあるのではないかと思います。
 道に迷ったり、落とし物をしたり、犬にほえられたり、誰かにいじめられたり、あるいは冷静になることができないため、その不都合なことがどんどん重なってしまったり、自分では、なかなか状況や事実を話すことができず、気ばかり焦って、出てくるのは涙だけで、動くことすらできなくなってしまう。
 あるいは、おもわず口をついて出た言葉によって、相手を怒らせてしまったり、誤解をされたり、あるいは、やってもいないことの犯人にされてしまったり、悔しい思いをすればするほど、言葉が出てこない。
 そのような状況を上手にくみとって、代弁してくれるお兄ちゃんや、お姉ちゃんがいてくれると、なんと心強いことでしょう。
 あるいは話すことさえ出来ない精神状態の時に、全てを察してくれて、受け止めてくれる大人に出会えたときは、言葉にできない安心感、喜びがあるでしょう。

  復活の主の約束

 「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。そして、神様が弁護者、つまり聖霊を送ってくださる。」これがご復活されたイエス様のメッセージです。
 聖パウロはローマの信徒への手紙の中で、「御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。」と記しています。
 私たちの破れ口にあって、他ならぬ神様が私たちのために、祈ってくだり、取りなしてくださるということを覚えて、復活節から聖霊降臨節を迎える日々を過ごしたいと思います。


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