すべての人に仕える者になりなさい

司祭 パウロ 上原信幸

 教会の地下ホールは今年も工事中です。利用が少なくなってきた和室を改装して、ホールと同じ床面に敷居を下げ、多様な用途に使っていただけるようにしています。
皆が使いやすく開かれた教会に、施設も改善していきますが、イエス様が教えられたのは、まず心を外に開くということでしょう。
 イエス様の考え方は、当時の世の中の価値観とは、まったく異なっていました。
「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と教えられた時、弟子たちは、だれが一番偉いかを言い争っていました。

   偉 い 者

 だれが一番偉いか。これはイエス様がユダヤの指導者、つまり王様になったとき、弟子達の誰が権力の座に着くのか―ということを考えていたのでしょう。
 誰が防衛大臣で、誰が財務大臣で、誰が総理になるのか、そのことを考えていたに違いありません。
 このあとに、ゼベダイの子、ヤコブとヨハネとが、「栄光をお受けになるときに、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左にすわらせてください」とイエスに願い出ています。
 他の弟子たちは「これを聞いて腹を立てた」とありますから、実は、彼らも内心は同じ気持ちを持っていて、おそらく「ずるい」と思ったに違いありません。マタイによる福音書によれば、それを願い出たのは、ヤコブとヨハネの母だったと記してありますから、実に家族を挙げてのことだったでしょう。
 私には弟子たちの気持ちがよくわかります。様々な欲を満足させようとする人間の姿、そこに自分自身の姿が見えるからです。
 地位や名誉は求めませんという人でも、精神的に安定した場所、人間は、少しでもよりよい立場を求めて行こうとする欲を持っています。 しかしイエス様は、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」一番すばらしいことは、一番後ろで人に仕えてゆくことだとおっしゃるのです。

   仕 え る

 ギリシャ語の「仕える」という言葉は、「ディアコネオー」という言葉ですが、この言葉はディア(通って、経て)+コニス(ちり)からできた言葉という説があります。日本語でいうならば、「泥をかぶって」ということでしょうか。
 イエス様は「暴力と責め苦を加えて彼を試してみよう。その寛容ぶりを知るために、悪への忍耐ぶりを知るために。彼を不名誉な死に追いやろう。」このような試練をまさに担っていかれました。そして、そのようなイエス様の寛容・忍耐・奉仕によって支えられるあなたは、どのような生き方をするのかと、イエス様はたずねられるのです。
 今年は神戸にフォス師が来神され、ミカエルの前身であるバルナバ教会を設立されて135年、ミカエル教会創立130年になり、来年は同師が地域に奉仕するために松蔭を設立されて120年、再来年は八代学院が50年という節目を迎えようとしています。
 私たちは名実ともに地域に開かれた、仕える教会としての歩みを進めたいと思います。


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