静にささやく声が聞こえた

司祭 パウロ 上原信幸
 教会暦で元旦は、主イエス命名の日にあたります。
 聖書に「8日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエス と名付けられた。これは、体内に宿る前に天使から示された名である。」と記されていることから、降誕日から8日目の1月1日を、イエス命名の日としています。「イエス」とはユダヤの言葉で「神は救いである。」という意味で、イエス様はまさにその名のごとく生きられたわけです。

    神の顕現

 昨年は、元旦から日本海側で50年ぶりの豪雪、3月には東日本大震災、秋には紀伊半島で120年ぶりともいわれる豪雨による土砂崩れによる災害がおこりました。
 世界に目を向ければ、ニュージーランドやトルコ、東南アジアで、地震や台風などによる災害が続きました。
 昔から、このような災害があると、それは神々の怒りであるとして考えられることが多くありました。
 今日でも、そのような考え方がしばしばあるように思います。
 しかし、聖書ではそのようなあり方とは、まったく異なった神様の姿が示されています。
 預言者エリヤが窮地の中で、神様の声を聞く場面が、列王記上の後半に記されています。
 仲間たちが殺され、祭壇も破壊され、エリヤも自分の死を願うような過酷な状況の中で、彼は神様の声を聞きます。
 地震や強風、炎などの天変地異がおこりますが、その中に神様はおられず、その後に聞こえる静かな声によって、エリヤは新しい使命を与えられます。
 古くから人々が神々が現れる瞬間と理解してきたような、普段と大きく異なった形ではなく、まったく予想外な形で、神様は預言者に出会われたわけです。
 1月6日は異邦人たちに救い主の栄光が顕わされたことを記念する顕現日ですが、エリヤの時と同様に、人間の側の想像や期待とは異なった形で、神様は人と出会われました。
 貧しい大工夫婦の子どもという形で、救い主が現れたのですが、その思いもかけない姿に惑わされず、東方の博士たちや羊飼い達は、神の御子に出会うことができたのです。

    新しい年の歩み

 新しい年の私たちの生活は、私たちが想像したり、期待したものとは違った形で進んでいくかもしれません。
 しかし、「神は救いである」という約束に信頼して、一日一日を過ごして参りたいと思います。
 そして、歩むべき道を私たちに示すため、語りかけられる神様の声を、聞き漏らさないように、耳を澄ましたいと思います。
 
「非常に激しい風が起こり、山を裂き岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かにささやく声が聞こえた。」
    列王記上 19章12節

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