その子をイエスと名付けなさい

司祭 パウロ 上原信幸

 イエス様の時代に、生まれた子どもは律法に従って生後8日目に割礼を受けました。
 イエス様はそれに従い割礼を受けられ、その時に「イエス」と、天使から告げられたとおりに命名されます。
 そのために、教会暦ではクリスマスから8日目の1月1日を、「主イエス命名の日」として祝ってきました。  イエス(ヘブライ語でヨシュア)というお名前は、「神は救う」という意味を持ち、預言者によって、 「彼の名は、『主は我らの救い』と呼ばれる。」と約束されたとおりの名前です。
 しかし、その救い主は、生まれて7日の間、一人の人間として名前もないような存在でした。
 また、お生まれになった時は、宿屋には彼らが泊まる場所がなかったと聖ルカは伝えています。
 しかし、それはけっして場所がなかったのではなく、出産の迫った旅人に場所をゆずる者が、だれもいなかったわけです。
  イエス様は本当に名もなく、居場所もなく、配慮するものもいない状態でお生まれになりました。
 神の独り子、永遠の救い主が、そのような、実にはかない存在としてこの世界にこられたとい うことです。 そして、「イエス=神は救う」という名前を受けられました。 私たちがイエス様の誕生を祝うのは、冬至の開けたときです。「夜」つまり暗闇が支配する時間が最も長い時、闇が最も深いときに、私たちは御子のご降誕を祝う礼拝を行います。 旧約聖書で預言者が語った、新しい太陽・義の太陽の到来を最も暗い時に祝うのです。

新しい歩み

 聖パウロは、コリント後書の中で、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
 わたしたちはいつも心強いのですが、目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたす ら主に喜ばれる者でありたい。」と語っています。
 わたしたちを取りまく状態は、多くの問題があり、行く先の見えない不安が絶えずあります。 2013年という新しい年があけても、日々は私たちが期待するような、希望に満ちたものではないかもしれません。
 私たちは、たとえ、見えぬ希望の中にあったとしても、いえ、むしろ自分たちの力だけで、より良き環境を完成させることができないからこそ、神様に助けられながら「イエス=神は救う」という希望を、この世界に伝えるものとして日々を歩むことが、神様によって望まれていることを、年のはじめに、今一度覚えたいと思います。

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」
   マタイ伝1章21・22節


2012 the Cathedral Church of St.Michael diocese of kobe nippon sei ko kai