救いは、主にこそある

司祭 パウロ 上原信幸

 夏休みに入り、朝の礼拝の始まりと共に、窓の外からはラジオ体操の曲が流れてきます。海や山へ出かける機会も増えますが、日本では年間千人近い人が水の事故で亡くなっています。 意外に多いのが、水着姿ではなく、予期せぬ時に着衣の状態で事故に遭うことだそうで、学校でも着衣水泳の訓練が行われています。
 日本国内だけでなく海外でも「Uitemate(浮いて待て)」の日本語とともに、身に着けている物の浮力を利用して、慌てずに救助を待つ理念が広がっているようです。 実は私も、学生時代に着衣のままボートから琵琶湖に落ちた経験があります。教会のキャンプ場で遊泳区域を示すブイを設置しにいって、勢いよく投げ込んだまでは良かったのですが、バランスを崩してブイと一緒に入水しました。ずぶぬれでボートにもどるのもなんだしと、安易な気持ちで岸まで泳いで帰りかけたのですが、途中で沈みそうになりました。
 ズボンが非常に重く感じ、見ている人も多かったので、平然と泳いでいるふりをしていましたが、内心は水底深く沈んでいく、ヨナのような気分でした。

  嘆く者

 ヨナは神様の言いつけに逆らって逃げ出し、嵐にあって海の底深く沈み、「潮の流れがわたしを巻き込み、深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく。地の底まで沈み、地はわたしの上に永久に扉を閉ざす。(ヨナ書2章7節)」と嘆きます。
 預言者である彼の名「ヨナ」とは「ハト」という意味です。クックと鳴くから鳥に九と書いて「鳩」となったそうですが、ヘブライ語の鳩=ヨナには、嘆くものという意味があります。 神の民イスラエルが国を失い、異教徒に支配された時代の人ですから非常に象徴的な名前と考えることが出来ます。
 漁師出身であったイエス様の弟子たちも、嵐にあって死にそうな思いを何度もしています。 もしかすると、「信仰の道に入れば、試練などなく、豊かで安穏とした生活が約束されるはずだ」という期待を彼らは持っていたかもしれません。
 しかし、そのような期待はあっさりと裏切られます。大嵐にみまわれて、漁師の彼らでさえ死を意識し悲鳴をあげます。
 信仰の道に入れば、苦しみはないとか、病気も試練もないなどというわけではないということを聖書は示しています。
 しかし、漁師でさえ恐れるような嵐でさえ乗り越えさせて下さったと、弟子たちは証ししています。試練を乗り越える恵みが、必ず備えられているということが同時に示されているわけです。

  救いをもたらす方

ヨナは、「わが神、主よ、あなたは命を、滅びの穴から引き上げてくださった。救いは、主にこそある。」と祈っていますが、まさにこのことを語っています。
 船の上でおびえる弟子たちに、イエス様は、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と語りかけられます。
 わたしたちが生きているかぎり、試練はあるはずです。けれども試練がないことが神様に祝福されている証拠ではなく、そのような試練をも乗り越える力が与えられることこそ、恵みのしるしと考えたいと思います。


2013 the Cathedral Church of St.Michael diocese of kobe nippon sei ko kai