あなたの信仰があなたを救った

司祭 パウロ 上原信幸

 先日免許の更新をしました。神戸に来てから無事故無違反といっても、車の運転をしているとひやりとする時が良くあります。先日も、ボールを追いかけて、公園から出てきた子どもに急ブレーキを踏みました。
 間一髪といっても、もっと注意深く、慎重に運転していれば、子どもの出てきそうなところは早く気が付いているわけですから、危険を避けることができたといっても、決して運転がうまいということではありません。
 その時は自分がたまたま「気付いた」というだけで、実は気付いていないところでは、もっと危ないことがあったかもしれないのです。

  気づいていない恵み

 似たことが、私たちの人生にも言えるでしょう。毎日毎日平和に、あるいは平々凡々と生きている。実は様々な危険にさらされているのですが、それと気づかず暮らしているわけです。
 聖書の中で、10人の皮膚病を病む人たちがイエス様に癒される場面があります。 重い皮膚病を患っている10人の人が、遠くの方に立ち止まったまま、「イエスさま、どうか、わたしたちを憐れんでください」と声を張り上げました。彼らは、汚れた者として、一般の人と一緒に暮らすこと はできなかったのです。
 イエス様はその人たちに、「祭司たちのところに行って、体を見せな さい」と言われたのですが、その途中で彼らは癒されました。 もし目の前で、劇的に癒しが行われれば、誰もが感謝の言葉を言ったでしょう。しかし、イエス様は本人もそれと気づかないうちに癒されます。ご自分に感謝を求めたり、名誉を求めたりするのではなかったわけです。
 家族が注ぐ愛情も、自然過ぎて普段は気づかずに、感謝もされずに通りすぎてしまうものです。
 神様についてもそうです。見返りを求めない奉仕は、実にさりげなく起こるものです。私達が忘れ、また気づかないことの中にも、大きな恵みが与えられているのです。

  恵みに気づくこと

 10人の中で、ただ一人だけが感謝をするためにイエス様のもとへ戻りましたが、他の者は、戻ってきませんでした。9人もおそらく業病といわれた病が治った、つまり神様の罰がゆるされたと判断されて、社会復帰できたことでしょう。
 しかし、イエス様を通して与えられた恵みに感謝することができなかったということは、自分が守られ、神様に愛されていることに気づくことができなかったということですから、また、問題が起これば、不安で、不満な日々が続くことでしょう。
 イエス様は帰ってきた人に、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と声をかけられます。神様があなたを救ったとはおっしゃいません。
 一つの問題が解決しても、人生の中では、また違った問題が起こってくるでしょう。しかし、神様の恵みに気がつくことができた者は、これから後も神様が自分を大切にしてくださることを信じて生きていけるから、それはとても幸いなことなのです。だからこそ、「あなたの信仰があなたを救った。」と、言葉をかけられたのだと思います。
 真の救いというものは、自分にとって不本意なことが起こらないことや、嫌なことがなくなってしまうことではないでしょう。
 さりげない形をとって、私たちに注がれる恵みに気づくことができるか。苦難の中にあっても信頼をもって生きることができるか。恵みの秋に、私達はそのことが問われていくのだと思います。


2013 the Cathedral Church of St.Michael diocese of kobe nippon sei ko kai