律法と恵み

司祭 パウロ 瀬山公一
 「なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。 あなたがたは律法の下ではなく、 恵みの下にいるのです。」 (ローマの信徒への手紙6章14節)

 新約聖書の中で、多くの場合、律法学者はイエスに敵対しています。イエスの新しい教えに脅威を感じたのでしょう。それまでは、律法を守っていれば良かったのです。言われた通りにしていればそれで良いのです。今までと同じであることで安心します。何かを変革するということは、何かで失敗するという可能性を多く持っています。

 キリストの福音を知らない人々にとって神とは、恵みの神であると共に、恐ろしい裁きの神なのです。罪を犯した者は、当然裁かれます。そして基本的に律法は減点方式です。100点の持ち点は罪を犯すたびに減点され、0点どころかマイナスになってしまいます。罪を犯さないように注意することは良いのですが、減点されないように、失敗を恐れ無難に過ごそうとしてしまいます。他人には無関心で、余計なことをしなくなります。またアダムとエバのように、自分を無理やりにでも正当化しようとして、結局罪を隠し、責任転嫁し罪を重ねてしまうことになるのです。そういう状況では、自分の罪を認めるということは、簡単にはできません。謝ったら負けです。それなりの代価を支払わなければなりません。

 しかし、神の恵みの働きは加算方式です。マイナスだったわたしたちの得点は、キリストの十字架によってプラスされていきます。そして、わたしたちが罪や失敗に気付き、悔い改めることで加算されていきます。さらに神の恵みはすべての人に降り注ぐのです。100点どころか10,000点にでもなり得るのです。たとえ失敗してもそれだけ多くの経験を積み重ね、自分を知ることができ、成長するのです。

 もちろん人間の価値は、点数で決まるものではありません。この点数とはわたしたちの喜びや希望の大きさです。これまでに犯した罪や、失敗も成功も、今のわたしたちを作り上げているのです。これからも自分の過ちを認める度に、わたしたちはさらに成長し続けることができるのです。罪を犯しても良いということではなく、罪に気付くことが何よりも重要なのです。

 キリストはわたしたちの罪を贖うために十字架にかかって死に、復活して永遠の命を示してくださいました。キリストの十字架によって赦されたと信じる人々にとって神は、恐ろしい裁き主ではなく、豊な恵みと導きを与えてくださる愛の神なのです。

 「裁きの場合には、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。」 (ローマの信徒への手紙5章16節後半)


2013 the Cathedral Church of St.Michael diocese of kobe nippon sei ko kai