主イエスの復活

司祭 パウロ 瀬山公一

「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
(ヨハネによる福音書20章2節)

  マグダラのマリアは、安息日が終わると待ちきれず、すぐにイエスが葬られた墓に行きました。しかしそこには、イエスの遺体はありませんでした。この時にペトロともう一人の弟子も墓に行きますが、彼らはあきらめて家に帰ってしまいます。そのため復活のキリストに最初に会うことができませんでした。一方マリアは途方にくれてその場で泣いているとイエスが語りかけられます。「しかし、それがイエスだとは分からなかった。(ヨハネ福音書20:14)」マリアは気付かずに園丁だと思ったのでした。うつむいて涙の溢れた目にはイエスの姿が映らなかったのでしょうか。自分の目の前で死んだイエスが、今ここにいるはずがないと思い込んでいたからでしょうか。「マリア」と自分の名前を呼ばれるまで気付きませんでした。

 また二人の弟子がエマオという村へ向かう途中で、復活されたイエスに出会います。「しかし、二人は目が遮られていて、イエスだと分からなかった。(ルカ福音書24:16)」二人はイエスの十字架のことを、本人を前にして、説明し始めます。その後イエスは聖書全体にわたり、キリストについて説明されました。そしてその日の夕方、イエスがパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて渡された時に、二人にはそれが誰であるか分かったのでした。

 復活されたイエスに出会った後に数人の弟子たちが、船に乗って漁をしていました。「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。(ヨハネ福音書21:4)」イエスに出会うのは、これで三度目になる弟子もいました。釘跡を見ないと信じないと言った後、その釘跡を見たトマスもいました。それでも分からなかったのでした。それよりも今彼らに必要なのは、食料だったのでしょうか。イエスは、「わたしだ」とは言わずに、「船の右側に網を打ちなさい」と言われました。彼らがイエスに初めて出会った時の記憶がよみがえり、破れそうな網を引きながら、やっと彼らは「主だ」と気付いたのです。

 わたしたちはいつもキリストに出会っています。ただ、絶望し前を見ることができないような時、勝手に思い込んでしまった時、他のものに気を取られている時、どうせもう無理なのだとあきらめた時、そして信じない時には、たとえ見えていたとしても、それがキリストだとは気付かないのです。キリストは、わたしたちの名前を呼び、命のパンを裂いて渡し、本当に必要なものを与え、わたしたちに気付かせてくださいます。キリストが、いつもあなたと共にいてくださることを感じて感謝を献げる復活日を迎えましょう。


2013 the Cathedral Church of St.Michael diocese of kobe nippon sei ko kai